今月号のこばなし
- 最近のできごと
- 魚沼産コシヒカリ誕生の物語
最近のできごと
こんにちは、源四郎のお米生産者の高橋です。すっかり冬の気候となりストーブやコタツが手放せなくなってきましたね。ここ福山新田でも先週、ついに初雪が降りました。去年よりも1ヶ月も早い初雪です。
今年はとてつもない猛暑かと思えば1ヶ月も早い初雪と、異常気象が続き、なんだか来年はどうなるんだろうかと心配になります。
さて福山新田では、11月の初めに村の行事として収穫祭が開催されました。毎年収穫祭は村の若手が主催することになっていて、今年は自分が主催となっての開催です。初めて行事を仕切るので、何から手をつけていいのやらという感じでしたが、村のお母さん方にアドバイスを貰いながら何とか準備を終え開催することができました。つくづく頼りになるなと関心させられます当日は去年に引き続き交流のある昭和女子大学の方々が応援に駆けつけていただき、今年はオニギリと豚汁、焼き芋を振る舞いました。
終わった後に集落の方からオニギリ美味しかったよ、楽しかったよと声をかけられ心底開催して良かったなと思います。
農作業の冬支度も終わり(上はくん炭づくりの様子)あとは本格的な冬を待つのみとなりそうです。
魚沼産コシヒカリ誕生の物語
今では全国的にも有名となり、源四郎のお米の品種でもある魚沼産コシヒカリ。
ですが、どのようにしてコシヒカリブランドが誕生したのか知らない人が多いのではないでしょうか?自分自身もその一人でした。そこで改めて成り立ちから調べてみると予想に反して面白い。
そこで是非皆さんにもこの話をお伝えできればと思い、本記事では魚沼産コシヒカリが誕生するまでの物語を書いていこうかと思います。
コシヒカリの誕生はトラブルだらけ
コシヒカリの誕生は昭和19年、戦争の真っ只中まで遡ります。コシヒカリは農林1号と農林22号を交配した種子の一部から生まれるのですが、当時の職員は出征による人手不足で交配させた後の研究ができないまま時間が経ってしまいます。
そこで新潟の研究所では研究を続けることはできないという判断になり、福島の研究所で再開されました。
しかしそこでも事件は起こります。研究の最中に地震が発生し被災してしまいます。しかし奇跡的に残った20株の内の一つ(越南17号)が後のコシヒカリとなります。
コシヒカリの名前の由来
このようにして生まれた越南17号(後のコシヒカリ)ですが、専門家からの評価はあまり良くありませんでした。
というのも、当時はたくさんの肥料を与え、たくさん採る、多肥栽培が主流の時代。越南17号は倒伏しやすいという理由から、そのような栽培ができませんでした。しかし、戦後、経済が安定しお米が余り出すと状況が変わります。たくさんの収量が採れる品種よりも美味しさや品質が重要視されるようになるのです。
当時、新潟で採れるお米は「鳥またぎ米」と言われ、鳥すらも食べないお米として全国的にも美味しくないお米と認知されきました。
しかし魚沼の青年が村を救いたい、という思いから研究者と手を組み、その作りづらさから敬遠されていた越南17号の栽培に取り組み始めます。そうして試行錯誤の末、栽培方法が確立され「越の国にヒカリが輝くように」という願いから「コシヒカリ」と名づけられ、現在に至ります。
魚沼でコシヒカリの栽培が適している理由
では何故、魚沼でコシヒカリの栽培が適しているのでしょう。先にも書いたように新潟はお米の生産に適した土地とは言えませんでした。その理由としてお米を栽培するには寒すぎること、春先の雪解け水が冷たく作物が育ちづらかったことに由来します。
しかし、そのような気候がコシヒカリには最適でした。魚沼市は市内の80%ほどが森林と、山間部の多い土地です。山間部の気候は寒暖差が大きく、豪雪の影響からミネラルを含んだ豊富な水が常に田んぼに注ぎます。
このような気候がコシヒカリの栽培には適しており、全国的に見ても美味しいお米が採れるようになりました。
最後に
源四郎のお米は以下の購入ページでご購入いただけます。魚沼の山の中で作ったお米、どうぞお楽しみください。